2024年9月11日放送の「ぽかぽか」で、高畑淳子さんの放った言葉が物議をかもしています。
高畑淳子さんは、何と言ったのか、そしてなぜ、その発言が炎上したのか?
一方、高畑さんの発言は「差別ではないのではないか?」という見方があります。
この記事では、両方の見方、その理由について、解説していきます。
「ぽかぽか」での高畑淳子さんの発言内容とは?
まず、9月11日の高畑淳子さんの発言の内容、そして、翌日9月12日の 原田葵アナウンサーの謝罪が、こちらです。
高畑淳子さんは、この日、ゲスト出演。
「人生最大のピンチ」というテーマでのトークでは、高畑さんが更年期障害になった時に受診した時のお話しが出ました。
病院行こうかな、と思って病院行くじゃないですか。(病院で)「あ、これ、ホルモンが無くなったんですね。お薬出しましょう。はい次の方~」みたいに。もう、牛の“とさつ”みたいに、こう(流れ作業のように)。で、あったま来ちゃって。そんな言い方無いんじゃない?
(引用元:「ぽかぽか」2024年9月11日放送より)
高畑さんは、病院での「流れ作業的な対応」を「牛のとさつみたい」と例えたんですよね。
これに対し、翌日フジテレビの原田葵アナウンサーが、
昨日の この時間の放送でゲスト出演者が病院での診察についてのトークの中で、牛のとさつみたいに、と発言しました。これは、職業差別を助長するおそれのある不適切な表現でした。
お詫びすると共に、この発言を取り消させていただきます。大変申し訳ございませんでした。
(引用元:「ぽかぽか」2024年9月12日放送より)
と、頭を下げ、謝罪しています。
なぜ、「とさつみたいに…」発言が炎上したのか?
高畑さんに悪気が無かったことはもちろんですが、炎上理由はこの2つだと分析します。
- 「とさつ」というワードそのものがNGなのでは
- 「流れ作業的」の例えに「とさつ」は不適切
①「とさつ」というワードがNGなのでは?
まず、「とさつ」という言葉について。
かつて、家畜を飼っている家庭では、食肉処理は当たり前に行われていました。
明治時代以降、食肉産業が発達してきましたが、家畜の解体にたずさわる人々が差別される、という社会問題が実際に起きてしまったんですね。
現代社会においては、もちろん差別されることはありません。
しかし、その歴史を知る人にとっては「とさつ」という言葉には「差別」のイメージがついてまわります。
「差別用語」に聞こえ、不快感を抱くことにつながります。
②「流れ作業的」の比喩に「とさつ」の言葉を使うのは、不適切
高畑さんのトークを聞くと、更年期障害になって初めての受診だったようですね。
初めての時は、お医者さんに色々、症状のことや生活での対処法など、聞きたかったことでしょう。
確かにこの時、お医者さんは もっと丁寧に クライアントさんが安心できる説明をしたら良かったと思います。
しかし、その悪い意味での「流れ作業的」を、「とさつ」で例えたため、食肉処理業務のことを分かっていないんじゃないか、失礼じゃないか、という気持ちになった人が多かったのでしょう。
高畑さんは、もしかしたら 食肉処理場の様子を、(何かで)見たことがあるのかもしれません。
その時の処理場の様子を覚えていて、「テレビだから面白いことを言わなきゃ」という思いから、思わず例えてしまったのかもしれないですね。
食肉処理場では、動物福祉の観点から、できうる限り動物に苦痛を与えない方法で食肉処理が行われており、また、直接 動物の生命を取り扱うことから、スタッフさんの心理的にも大変なお仕事です。
動物さんたちへの感謝の気持ちを、筆者自身も忘れないようにしよう、とあらためて思いました。
「差別」ではないのでは、の見方
一方、「差別ではないのではないか」という意見も、多く見られました。
牛のとさつも立派な職業であり、そういう仕事に従事している人が居るからこそステーキや焼肉を食べられる。
差別用語と言うこと自体差別ではないのか。
スーパーの店頭に並んだ食肉類は国産、外国産に限らず全てがとさつによって製品にされたものである とさつと言わないで何と言えば良いのか。
何でもかんでも差別と一括りにしてはいけないのではないか。
(Yahoo!ニュースコメント欄より)
差別用語という事や、言い換えすること自体が、「差別」なのではないか、という見方です。
「とさつ」の言葉そのものは、そのままの意味を表しているため、「差別用語」ではありませんよね。
実際に昔あった職業差別は「人」が「人」に対して行ったことでした。
現代では差別の意味をなさない「とさつ」が、あるいは言葉として生活に馴染んでいけば、「差別」のイメージはなくなるかもしれません。
ただ、もし実際に 食肉処理業に従事される方々にとって この言葉が、まだ「差別の時代のイメージがついているので不快感がある」ようであれば、今はまだ、テレビなどでは使わない方が良いかもしれません。
以前からあった「とさつ」言い換えにまつわる議論
また、以前から、言い換えについては様々なところで議論されています。
『世界屠畜紀行』著者の内澤旬子さんは、そのエッセイの取材のために「と畜場」をまわった際の原稿を担当者に送ったところ、新聞社の規定により「と畜場」の表記は差別語にあたってしまう、という連絡が来たといいます。
ただ、担当者さんは、(記者としては規定があるので書けないが)内澤さんは社外の方なので、どうしてもご希望の場合には推しきれます、と言ってくださったのだとか。
また、それが記載されていると配信記事を掲載しない地方の新聞社も出てくる可能性がある、とも教えてもらい、内澤さんは、迷って、「食肉処理場」に直したそうです。(参考:内澤旬子さんブログより)
しかし、本のタイトルは「直す」ことができないので、内澤さんプロフィール欄の「著書」には『世界屠畜紀行』と掲載されているのだとか。
面白いですよね。
内澤旬子さんは、こう述べています。
むしろ自分がまずやらねばならないのは、第一に心がけたいのは、どんな言葉を使ってでもいいから、動物を絶命させて食べる肉にするところを、食べるという行為の一環として思い浮かべる事ができるようになってもらう事かなと。
ネガティブなイメージを消すのではなくて、ポジティブなイメージやフラットなイメージをもっと増やせばいいということです。
そしたら「屠畜」でも「食肉処理」でも、たぶん「屠殺」でも、差別的な響きは減るんではないかと。
甘いですかね。
(引用元:内澤旬子さんブログより)
どんな言い方でも、動物の命をいただく、ということについては同じですよね。
また、こちらは、今回の騒動とは関係なく、2018年のツイートです。
『記者ハンドブック』によると、「とさつ場」の言い換えとして「食肉処理場」「食肉解体場」を使うらしいけど、脊椎動物の命をいただくニュアンスが薄れるから嫌い。(かつて小説で使おうとしたらグーグル日本語入力にはねられたことをいまだに根に持っている)
(引用元:薩摩 和菓子さんXより)
「命をいただく」ということを忘れないように…その表現としては、「とさつ」の方が相応しいともいえます。
まとめ
高畑淳子さんの発言に関して、両方向から見てきましたが、「とさつ」の言葉については、様々な意見があることが分かりました。
そして、私たち人間は、動物の命をいただいて生きている、ということを忘れずにいたい、と、今一度 今回の件で考えさせられた、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
食肉処理業務に就いている方々にも、本当に、感謝です。
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