2024年9月19日、兵庫県の斎藤元彦知事の不信任決議案が可決され、今後の斎藤知事の選択に注目が集まっています。
不信任案可決の場合、辞職か、議会解散かを10日以内に選ぶことになります。
今までに不信任案が可決された知事は誰?
その知事たちは、可決された後、どうしたの?
今回は、過去に知事が不信任決議で可決されたケースについて、
- 誰が
- なぜ
- 可決後どうしたか
を、お伝えしていきます。
不信任決議が可決された知事は 4人
今までに、実際に不信任決議が可決した例は少なく、過去には4人のみとなります。
斎藤元彦知事が、5人目のケースとなります。
これまで、議会解散を選択した知事はいません。
ただ、不信任案が出された背景は、「不祥事」といったケースばかりではありませんでした。
では、1人1人のケースを見ていきたいと思います。
① 平野 三郎 氏(元・岐阜県知事)1976年12月14日に不信任決議可決
1人目は、平野 三郎 元岐阜県知事です。
平野 三郎さんは、不信任決議が可決された当日に、辞職しました。
平野 三郎知事は、岐阜県の工事の競争入札での不正を行い、1976年12月に書類送検されています。
平野知事は、便宜を図る見返りに、建設会社2社から300万円ずつ、受け取っていました。
これを受け、12月14日に不信任案が可決、平野知事は当日に辞職しています。
1980年には、懲役2年(執行猶予4年)の判決が出ました。
平野 三郎さんは、「平野文書」をまとめた人!
現在の日本国憲法、憲法9条「戦争放棄」の発案者について、当時の幣原喜重郎首相といわれています。
幣原首相が発案、マッカーサーがその提案を受けて、条項化を指示したことがわかっています。
平野 三郎さんは、1951年2月下旬に幣原氏から話を聞き取り、その内容を「平野文書」にまとめた人でもありました。
問(平野 三郎さん):元帥は簡単に承知されたのですか。
答(幣原 喜重郎さん):マッカーサーは非常に困った立場にいたが、 僕の案は元帥の立場を打開するものだから、 渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。
僕としても軍人である彼がすぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には 非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
(引用元:「平野文書」平野三郎氏 記/12頁)
平野さんの聞き取りからは、昭和天皇もまた、日本国憲法の同意者、当事者であったことも、うかがい知ることが出来ます。
(幣原 喜重郎さん)陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。
(中略)
正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。
たとえ象徴とは言え、天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。
(引用元:「平野文書」平野三郎氏 記/14頁 )
(憲法9条、現在の日本国憲法は、GHQから「押しつけられたもの」という俗説も、改憲勢力により広まり、現在も「論争」が続いています。)
(参考:「平野文書」平野三郎氏 記 /じんぶん堂 2023.4.28 )
平野さんのまとめた「平野文書」は、憲法にかかわる重要な史料だということが分かりますね!
② 田中 康夫 氏(元・長野県知事)2002年7月5日に不信任決議可決
2人目は、田中 康夫 元長野県知事です。
田中 康夫さんは、不信任決議が可決された10日後に失職。
その後、知事選に再出馬し、再選されています。
田中康夫さんは、「治水・利水ダム等検討委員会」を作り、河川ごとに、ダムの必要性を徹底調査し、審議を行いました。
田中さんの「脱ダム」宣言は、現在も 長野県のホームページに掲載されています。
「数百億円を投じて建設されるコンクリートのダムは、看過し得ぬ負荷を地球環境へと与えてしまう。」
「国からの手厚い金銭的補助が保証されているから、との安易な理由でダム建設を選択すべきではない。」
(引用元:長野県ホームページ「脱ダム」宣言 )
この宣言は、日本国内に波及し、公共事業見直しの機運が高まっていきました。
しかし、田中さんの進めた「脱ダム」は、やはり、と言うべきか、長野県内の建設業界、県議会族議員の多くから激しく批判されることとなります。
こういった長野県議会との確執から 不信任案が可決され、田中さんは失職を選択し、再び知事選に出馬します。
出直し選挙では、知事不信任勢力が推す長谷川敬子氏を破り、田中さんが再選されました。
田中康夫さんは、公共事業費削減だけでなく、小学校の30人学級化を実現したりもしています。
③ 大田 正 氏(元・徳島県知事)2003年3月31日に不信任決議可決
3人目は、大田 正 元徳島県知事です。
大田 正さんは、不信任決議が可決された10日後に失職。(賛成33票/反対9票で可決)
その後、知事選に再出馬、おしくも落選しました。
大田知事は、圓藤寿穂前知事が収賄容疑で逮捕され辞職したため、県知事選挙で、汚職の一掃をかかげて当選したのが大田 正さんです。
自民党の基盤が強い中で「異例」の当選でした。
大田知事は、圓藤寿穂前知事の汚職事件を解明すべく、第三者調査団の設置を提案しますが、自民、公明などが「県内部の問題は内部調査で十分」と反対、補正予算案から調査委託費を削ってしまいます。
しかし、県民はこれに怒り、議会が予算をつけないなら、と、カンパが集まります。
いよいよ、2003年4月から本格的な調査に入れる、という矢先の3月20日、「突如」野党である自民・公明などが不信任決議を主導し、「公約の後退」や「県政の混乱」を理由に、不信任案を提出しています。
大田知事は、他にも、徳島県の大型公共事業の見直しを掲げていました。
出直し知事選では、自民党県議らの要請で、自民党の推薦を受け知事選に出馬した飯泉嘉門氏が当選しました。
票数は、大田前知事と僅差だったといいます。
大田さんは、2016年、辺野古に連帯し、新基地建設に反対して続けられていた座り込みにも参加されています!
④ 安藤 忠恕 氏(元・宮崎県知事)2006年12月1日に不信任決議可決
4人目は、安藤 忠恕(あんどうただひろ)元宮崎県知事です。
安藤 忠恕さんは、不信任決議が可決された3日後に辞職。
(賛成40票/反対無し/欠席2人で可決)
橋梁設計業務の入札で、談合事件が発覚し、2006年12月1日に、安藤元県知事の不信任決議案が可決されました。
安藤知事は、12月4日に宮崎県知事を辞職、12月8日には、競売入札妨害容疑で逮捕されました。
この時、側近や県幹部なども含め、のべ16人が逮捕されたよ。
2009年に懲役3年6月、追徴金2000万円の判決を受けています。
その後、上告中の2010年に、悪性リンパ腫で急逝されました。(そのため、公訴棄却。)
その後、宮島県知事になったのが、東国原 英夫氏です。
東国原さんは、自身のブログで、安藤さんへ追悼のメッセージをつづっていました。
安藤氏におかれては、官製談合事件での逮捕等もあったが、県職員としてまた知事として、県政発展のためにご尽力を頂いた。そのご功績に対して心から敬意を表すると共に心からご冥福をお祈りしたい。
(引用元:東国原英夫オフィシャルブログ 2010.4.30 )
今も県民から「懐かしい」の声が上がる「きっと元気。ほっとみやざき」のキャッチフレーズを発表したのは安藤県知事でした。歌っていたのも安藤県知事なのだとか。
「きっと元気。ほっとみやざき」は、2005年当時、約3,000の応募の中から選ばれた、宮崎市の坂本牧子さんの作品です。
【番外編】不信任決議案が可決される前に辞職 舛添 要一氏(元・東京都知事)2016年
都議会自民党・公明党等が、2016年6月15日の未明に 舛添元都知事の不信任決議案を提出。
15日午後の本会議で、全会一致で可決されることが確定的になっていたため、 舛添氏は 可決される前(15日午前中)に辞表を提出した(辞職は21日付)。
舛添氏は、毎週末に別荘へ公用車で通っていたことや、政治資金の公私混同を問われていた問題で、不信任決議案提出に至りました。
一方、舛添さんは都知事時代、姉妹都市の北京とソウルを訪問するなど、積極的にアジア外交を行っています。
朴元淳ソウル市長(当時)と、東京とソウルの協力促進などを盛り込んだ合意書を結んだり、朴槿恵大統領(当時)とも会談しています。
この時、朴槿恵大統領と、韓国人へのヘイトスピーチは許されないとの認識を共有します。
舛添さんは2020年にも、朴元淳ソウル市長を「友人」といい、日韓の政治家交流の大切さをブログにつづっていました。(参考:政治知新 2020.7.12 )
まとめ/斎藤元彦知事は、どうするのか?
過去の不信任決議の例を見ると、内容は様々でしたね。
県民からは支持されているけれど、改革に否定的な族議員…議会と対立している事情から、不信任決議となった事例もありました。
また、過去の「逮捕者」の知事の罪は確かに、それ自体は重く受け止めるべきことですが、それだけが「その人の評価」ではないことも解りました。そこは別々に見ていく必要がありますよね。
「斎藤元彦さん」という人に対しても、冷静に、客観的に見ていくことが大切だと思います。
※決して、斎藤さんへの 誹謗中傷は、してはいけませんよね。
斎藤知事「気持ちは固まりつつある」
斎藤知事は、この先どうするのか、その動向に注目が集まっています。(2024年9月21日現在)
斎藤知事は、10日以内に、県議会解散か、失職か、選択することになります。
不信任案可決後の会見では、
「これは大変重い、議会側の選択です。一方で私にとっても重い状況を、ある意味示されたということになってますので、しっかりと考えることが大事だと思います。」
「自分自身の思い、そして兵庫県にとって、これからどういう事が大事か、そういった事も考えながら、問いながら考えていきたいと思います。」と答えています。
「ご自身に何の責任があると思いますか?」と問われると、「不信任決議が全会一致で可決、という形になりました。(この)結果をもって、私に責任があると思います。」と応えていました。(参考:9月19日 KYODO NEWS)
9月21日放送の「ウェークアップ」内のインタビューで、斎藤知事は進退について、ご自身の思いは固まりつつあると、述べました。
「県政について、道半ばですが」と問われると、「県立大学の授業料無償化については、(議会で)賛成を頂きましたので、大丈夫かと思います。」と述べ、自身が再び出馬するかとの問いには、お答えになりませんでした。
この日「ウェークアップ」(日本テレビ)に出演されていた松井一郎さん(元大阪府知事)は、斎藤知事について「まじめで、知事になった当時は、職員の方々も応援していた」と言います。
そして、どこかで慢心が出てしまったのかもしれない…と苦慮の表情を見せました。
斎藤知事は、様々な公約を実現し、改革を進めてきたのも、確かです。(知事の給与3割カット・知事らの公用車見直し・「天下り」規制・県立大学の授業料無償化など)
番組内で、元県民局長さんが他界されたことについて問われると、斎藤さんもショックを受けているといい、直接言ってほしかった、と、彼の本音が かいま見られました。
(2024年9月21日現在)
【2024年9月26日 追記】
2024年9月26日、斎藤知事は、失職し、出直し選挙に出馬することを表明しました。
斎藤知事は、まもなく失職することが決まっていますが、粛々とお仕事をされていました。
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